久 琢磨 小伝

久 琢磨(一八九五〜一九八〇)

 久琢磨は、明治28年(1895)11月3日高知県安芸郡佐喜浜村に久克三郎の長男として生まれ、成器商業を経て、大正4年(1915)苦学しながら神戸高商(現神戸大学)に入学、学生時代は相撲部主将として活躍した。

 学生相撲の創設者の一人であり、昭和40年 相撲名誉八段を授与されている。

 神戸高商を卒業後、鈴木商店に就職したが、倒産のため昭和2年(1927)神戸商高の先輩であり政界の実力者であった石井光次郎の世話で、東京朝日新聞に入社した。

 昭和九年、大阪朝日の庶務部長の職に就いた久は、石井光次郎の紹介で東京の植芝盛平を招き大東流合気柔術を学んだ。(植芝盛平は後の合気道開祖。当時は流名を名乗らず、「朝日でやっているから旭流柔術」と称していた)

 昭和11年6月 武田惣角が来阪し、指導を受けた。昭和14年(1939)3月26日、惣角は久に免許皆伝を許し、大東流を後世に遺すように伝えた。

 稽古が終わった後、久が師を風呂に案内して背中を流している間に、残った門弟達が習った技を再現して、一つの技を二、三枚の分解写真に撮った。こうして作られた写真を九巻にまとめ、別に女子の護身に適した技と警察官の逮捕術に適した技を選んで新たに写真を撮り、「女子武道」「捕技秘伝」の二巻にまとめ、全十一巻を「天・地・人」に分け「総伝技」として記録保存した。久の著書には他に「惟神之武道」「女子護身術」「捕技秘伝」があり、さらに久の監督による記録映画「武道」では、当時は守高と名乗っていた植芝盛平の、合気道を興す前の貴重な演武を見ることができる。

 昭和18年(1943)新聞社を退職し、神戸製鋼の厚生部長を勤めた。その後、矢沢一夫主宰の国策研究会関西事務局長として活躍するが、昭和34年(1959)その退職の慰労会の席で、石井光次郎から「君にしかできない大東流合気柔術を後世に伝えるように」と激励され、大東流合気柔術の指導に専念する決意を固めることになる。同年10月、関西財界有志の支援により、関西合気道倶楽部を設立した。指導半ばの昭和36年(1961)秋に脳卒中で倒れ、再起不能と思われたが、強靭な意志力で病を克服し、指導を再開した。昭和40年(1965)2月、妻を失った後は道場に寝泊りして指導普及に努め、多数の門人を育成した。昭和43年(1968)健康を気づかった家族の説得により東京に転居し、同倶楽部は閉鎖された。

 昭和50年(1975)8月、久の指導と門弟たちの総意により琢磨会が結成され、久は森恕を琢磨会総務長に任命し、後事を託して、昭和55年(1980)10月31日神戸で八十四歳の生涯を閉じた。門弟たちは久琢磨の遺志を継ぎ活躍している。