5. 久琢磨先生が大東流と出会った時代(2)

随想
久琢磨先生 埼玉ビル道場にて

◆鈴木商店

久琢磨先生

 久先生が朝日新聞社に入る前に勤めていた商社です。社長鈴木よねの懐刀であり大番頭でもあった金子直吉は、鈴木商店を急拡大させた実質の立役者でした。そして金子直吉は久琢磨と同郷の土佐出身です。久先生は、学生時代に金子の援助により運営されていた「土佐寮」から神戸高商に通っていました。

総合商社 鈴木商店

 鈴木商店は、明治7(1974)年に川越藩(現在の埼玉)出身の和菓子職人鈴木岩治郎が砂糖の目利きを活かして神戸の弁天浜(現在の神戸ハーバーランド周辺、花隈弁天に由来)で興した貿易商社です。明治27(1894)年に岩治郎が急逝したのち、夫人よねが社長に就き、丁稚から身を起こした大番頭金子直吉と、後に豊年製油の初代社長となる柳田富士松らの活躍により国際貿易商社として急速に事業を拡大していきます。最盛期の大正9(1920)年には、売上約16億円(当時の日本の国民総生産の1割に相当)にまで成長し、その規模は大財閥系列の三井物産、三菱商事をも凌駕しました。

 それほどの大企業でしたが、残念ながら関東大震災と世界恐慌を経て破綻していきます。当時、あまりにも急激に拡大した鈴木商店は、社内では人材不足や勢力争いといった問題を抱え、同時に社外にも政財界に敵を作るなど課題が山積していたようです。一説には、ライバル会社が虚実ない混ぜの噂を流したとも言われており、悪評に煽られた暴動によって本社屋を焼き討ちで失う大事件まで起きたほどでした。

 久先生は、傾き始めていた鈴木商店で、窮地にあった金子を擁護したことが原因で、政争に巻き込まれて会社を追われたそうです。そのためだと思いますが、後年、金子直吉はわざわざ久先生を訪ね、一日かけて当時起きていたことの真相を語っていかれたと聞きます。作家の城山三郎氏は、鈴木商店と金子の一代記「鼠」の執筆にあたり、久先生を訪ねて取材されました。

 鈴木商店は破綻したのち解体されます。しかしそれは、戦後の日本を支える大企業の母胎となったり他の企業に統合されるなど形を変えて生まれ変わりました。神戸製鋼所、帝人、双日、IHI、太陽鉱工、サッポロビール、ニップン(旧日本製粉)、J-オイルミルズ、ダイセル、出光興産(旧昭和シェル石油)などが、鈴木商店の流れを汲む企業として知られています。

 現在、鈴木家と金子直吉らの墓は神戸追谷にあるそうです。

◆皇室筆禍事件

 久先生は、石井光次郎の紹介で植芝盛平先生に師事することになりました。その発端は、新聞社に暴徒が乱入するといった事件があったからです。輪転機に金剛砂(研磨用の工業用材)を撒かれたうえに、社主が拉致されて電柱に縛り付けられるといった衝撃的な事件があったため、その対策に社員から武道の素養がある者を集めて自警団を設けたのでした。

 そのきっかけは、昭和3(1928)年に起きた新聞社の校正係のミスによる皇室筆禍事件だったと言われています。それが具体的にどういう事件だったのか、調べてみてもなかなか分かりません。

 実はこの件は、何年も前に偶然記事を見つけてスクラップしていたのですが、今回見つけることができませんでした。

 あやふやに覚えているところでは、当時の宮家のどなたかが崩御されたことを伝える記事が、亡くなられたのがご本人だけでなく、その死を悼むご家族までもが亡くなったようにも読める、新聞記事にしては稚拙な書きぶりの”てにおは”と”句読点”の間違いレベルの文章が原因だったと記憶しています。これが不敬であると騒ぎが起こり、襲撃の発端になりました。

 ところが、この事件には更に別の背景があったようです。

 この事件の少し前に、朝日新聞はさる有力者を批判した記事を掲載したことがあり、逆恨みしたその相手が、この筆禍記事を口実にゴロツキを焚き付けて朝日新聞の社屋を襲わせたのが真相だった、という説を目にしたのですが、残念ながら傍証すら確認できないので、この話題は一旦ここまでを記すにとどめます。

 また何か分かれば記事を更新します。

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