歴史についていろいろと書いてみると、見過ごしていた疑問が目に付いたので、分かる範囲で調べてみました。
◆大阪朝日新聞
朝日新聞大阪本社ではなく、先頭に大阪と表記されています。なぜ“大阪朝日”と表すのか疑問でした。
久先生が在籍していたのは、当初は石井光次郎に紹介された東京朝日新聞でした。その後、大阪朝日新聞に移った、と過去の琢磨会の会報等で紹介されています。なお、新聞社の前に勤めておられたのは鈴木商店です。鈴木商店は戦前に急成長を遂げた国際貿易商社で、一時は国家予算に匹敵する売上を誇ったとも言われています。
以下は、ウィキペディアや朝日新聞社のホームページ、その他にも往時の新聞事情を解説した記事などを参考にまとめました。
朝日新聞は、明治12(1879)年に大阪で創刊されました。当初は大衆向けのいわゆる通俗紙だったようです。明治21(1888)年に東京に進出し、東京朝日新聞と改題して発行します。同時に元の大阪の朝日新聞は大阪朝日新聞へと改称しました。合わせて社名も変更して、それぞれを東京朝日新聞社、大阪朝日新聞社が担いました。この頃には報道新聞へと方向転換を図り発行部数を伸ばしていったそうです。東京、大阪の他にも中部、西部などの各地区をそれぞれの朝日新聞社が担っていましたが、明治41(1908)年に各社を合併、再び社名は朝日新聞社となります。しかし紙名はそのままで大阪、東京などを冠した名称で発行し続けました。紙名を冠なしの朝日新聞に統一するのは、昭和15(1940)年になってからです。
そういった次第で、久先生が朝日新聞に入社する昭和2(1927)年から、退社する昭和18(1943)年までに紙名の変遷がありました。しかし会社としては、この頃には既に朝日新聞社に統合されています。この辺りの表記が社名でなく紙名で語られるのは、もしかすると当時の通称がそうなっていたのかもしれません。
久先生は、約16年を朝日で過ごされましたが、その中の5年のうちに植芝先生と出会い(昭和9(1934)年)、武田惣角先生が来訪され(昭和11(1936)年)、大東流の免許皆伝(昭和14(1939)年)がありました。今のわたしたちからすれば、これらの出会いと出来事がほんの5年の間に起こったとは驚くばかりです。
新聞に関して余談ですが、惣角は子供の頃に父親に反発して、読み書きは勉強しない、必要なときは人に書かせるのだと宣言し、それ以後は専ら武術稽古に精励したという逸話が伝わっています。しかし森前総務長によると、久先生は惣角先生が新聞を読んでおられる姿をよく見たと言われていたそうです。実は昔の新聞はルビ付きでした。総ルビといい、当時は仮名文字さえ読めれば新聞が読めたので、意外と多くの人々が新聞を読んでいたようです。一方で惣角先生は、ルビのない手紙などの私信は、時どき人を頼むこともあったようです。もっとも当時の手書き文は変体仮名だったので、現代の仮名遣いより読むのは難しかったと思います。
私事ですがわたしの母方の大叔母も、戦前にマレーの女学校に通っていたため、英語の読み書きには不自由しなかったのですが、日本に戻ってからしばらくは、日本語の読み書きはあやふやでした。しかし、新聞がルビ付きだったので欠かさず目を通していたそうです。
◆石井光次郎
往時は説明のいらない有名な方でしたが、最近ではわたしも含め知らない人も多いと思います。この方は久先生の人生の局面で幾度もお名前があがります。
石井光次郎は明治22(1889)年生まれ、政治家。戦前に商工大臣を勤め、その後、朝日新聞専務、朝日放送初代社長に就きました。戦後は政界に復帰して、運輸大臣、副総理、通商産業大臣、法務大臣、衆議院議長などを歴任。昭和56(1981)年没。久琢磨先生との縁は、神戸高等商業学校(現神戸大学)在学時に相撲部の部長だったことによります。久先生を朝日新聞社に紹介し、これが後に久先生と大東流を出合わせる機縁となりました。ご自身も朝日新聞社にいた頃に植芝盛平に入門していたそうです。
後年、久先生は石井光次郎の秘書のような仕事をされていたということです。関西エリアにおける何でも担当の、いわゆる私設秘書でした。
実は、石井光次郎は琢磨会の設立にも間接的に関わりがあります。久先生は石井光次郎の勧めによって琢磨会の前身、関西合気道倶楽部を設立されました。
こうして振り返ると、石井光次郎が久琢磨先生を朝日新聞社と結びつけ、植芝先生を大阪朝日に招聘し、これが久先生と武田惣角との出会いにつながり、更に久先生を奮起させて琢磨会の前身となる関西合気道倶楽部創設のきっかけを作られました。大臣を歴任した高名な政治家だった方が幾度かにわたってわれわれ琢磨会の種を蒔かれたというのも不思議な縁です。