8. 大東流武田老先生より免許皆傳を授与さる

随想
中央 武田惣角、左 久琢磨、右 吉村義照、後中央左 中津平三郎 朝日新聞社 大阪本社屋上

 まだ森恕前総務長がお元気だった頃に、久琢磨先生のご息女陽子さん宅を森先生ご夫妻と会員のY氏と共に訪問したことがあった。そのとき、久先生の日記を見せていただき、久先生が武田惣角先生から免許皆伝を授与された昭和14(1939)年3月26日のページを写真に撮らせていただいた。陽子さんが、「父ったら後半に書いているのは宴会の話で」と苦笑されていたのが印象に残っている。

久琢磨先生の日記より
久琢磨先生の日記

 不勉強で変体仮名にわからないところもあるが、日記を現代仮名に置き換えてみた。

大東流武田老 / 先生より免許皆 / 傳を授与さる / 午廾ニ時よりニユウス / 午廾六時より㐂代の / 祝の為の同伴北野 / 酒場へ

 実は、このウェブサイトに初稿を公開した少し後に、久先生と大阪で暮らしたことがあるお孫さんと食事をご一緒する機会があった。そこで貴重な昔話を聞かせていただき、またこの日記に書かれている幾つかの部分に関する興味深い意見をいただいた。そのおかげで漸くわからなかったところを読み解くことができた。この稿は、そのときのお話しを参考に初稿から内容を修正していることをお断りしておく。

 『㐂代(きよ)』とは久先生が折にふれて利用されていた料理屋で『床㐂代』というのが正確な屋号なのだそうだ。大阪梅田の北野に店を構えていて、職場からもほど近く、お会いしたお孫さんによれば、久先生がお元気だった頃(大阪の埼玉道場の頃なので免許皆伝から20年以上あとである)に、ときどき床㐂代の名を聞く機会があったという。 おそらく久先生のお気に入りの店のひとつだったのだろう。

 では『ニュウス』とは何か。これも、次のような推論を聞かせてもらった。

 この日記の日は、大阪朝日の惣角の弟子が集まり、久先生の免許皆伝をはじめ、各人にも免状を惣角から授与されたのだろう。当然、祝いの宴席を用意したと思われる。ところが店が開く夕方まで時間があったので、ニュウス(ニュース)という名前の喫茶店か何かで歓談して時間を調整したのではないか、と考えたのだそうだ。その根拠は、当時の朝日新聞の大阪本社ビルには関西初の本格的な高級西洋レストラン『アラスカ』が店を構えており、政財界や文化人にも人気の有名店となっていた。それで、レストランの他にも、気軽に立ち寄れる喫茶店がビルの中にあったのではないかと推測して、おそらくそれが『喫茶ニュース』ではなかったか、と考えたのだという。新聞社のビルにある喫茶店の店名が『ニュース』とは、なるほどと思い調べたが、今のところ答えには辿り着けていない。(なお『アラスカ』は、現在も朝日新聞大阪本社ビル、中之島フェスティバルタワーで営業している)

 『床㐂代』について調べてみると、大阪駅前第二ビルにほど近い場所、つまり北新地にあったことが分かった。おそらく平成のいつ頃かまでは営業していたようで、今でもグルメサイトなどに割烹床㐂代(新字体表記では床喜代)の記事と写真を見ることができる。もう少し早く知っていたら訪問できたかも、と少し残念ではあるが、現在も床㐂代ビルという建物があり、地階と地上四階の各フロアで5つの飲食店が営業しているので、機会があれば、いつか久琢磨先生と武田惣角先生、そして大阪朝日のメンバーが、免許皆伝の祝宴を開いたであろう場所に行って食事をしてみたいと思っている。

 時代はこの日記の昭和14(1935)年をはさんで、二年前の昭和12(1937)年に日中戦争が始まり、二年後の昭和16(1941)年には太平洋戦争へと拡大する。また日記の翌年の昭和15(1936)年には、もう一人の師植芝盛平先生が、後の合気会の前身となる皇武会を設立している。そういった日々の1ページであると思うと感慨深い。

 なお、よく知られている惣角先生と久先生が免許皆伝の書状を持って並んだ写真は、ふた月遅れの5月になってあらためて撮影されたものである。おそらく、あとから思いたって、師弟で正装した記念写真を撮ったのだろう。

武田惣角、久琢磨 師弟の記念写真
武田惣角 久琢磨 師弟の記念写真
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