琢磨会について

 琢磨会は久琢磨を中心にその門弟達が集まって設立された武道団体である

 昭和7年、大阪朝日新聞社の庶務部長であった久は、石井光次郎の紹介で、天才的な柔術家として植芝盛平を紹介され、警備責任者として守衛を中心とした社員数名とともに、毎日早朝、植芝の教授する柔術の修行につとめた。昭和11年、植芝の師、武田惣角から教授を受けるようになり、昭和14年3月26日、久琢磨が武田惣角より、その門人中唯一の免許皆伝を允可された。

 久は昭和34年(1959)7月、石井光次郎の慫慂後援と関西財界有志の賛助によって、大阪平野町に「関西合気道倶楽部」を設立し、後進の指導に当たった。昭和43年、高齢を心配した家族の勧めにより東京に転居し、同倶楽部は閉鎖した。

 しかし閉鎖後も門弟達によって稽古が続けられ、毎年合宿稽古を開催し、昭和年夏の合同稽古の折、久球磨の意思によりこれを団体化した。そして阿波池田の千葉紹隆師範の提案により、久琢磨の名前を冠して琢磨会と名乗ることとなった。爾来技法の練磨継承に努めている。

 このように、琢磨会は合同稽古が発展して結成された武道団体である。