6. 大東流は同時打ち

随想
合同稽古会 中央 故森恕前総務長

 今回は、武術の口伝について記してみようと思う。

〽︎交互に叩くは芸者の太鼓 〽︎大東流は同時打ち

  この唄は、武田惣角師が久琢磨先生や大阪朝日の子弟に聞かせた唄だそうだ。もしかすると、全国各地にも、惣角からこの唄を聞いて伝えている門下の方々がおられるかもしれない。わたし自身は、幾度となく師の森前総務長が技を示しながら、スタッカートを効かせて唱えるのを聞いて抑揚とリズムを覚えた。かの惣角師が唄ってみせていたものを、こうやって我々が同じ節で聞いたり唄っているのかと思うと何やら感慨深いものがある。

 ところでこの口伝は、太刀を両手に持って、それぞれバラバラに打つのではなく、同時に打つ要領を模した大東流の口伝なのだそうだ。

 この同時打ちの要諦は、森恕先生によれば、相手を二か所同時に攻撃することで起きる、刺激に対する触覚の反応が、受けた者の混乱を誘うのではないかと言われていた。故に同時打ちは、心機呼吸をはかって、二刀同時に接点を作るように打たねばならない。

 もうひとつ、これはわたしの理解だが、技を仕掛ける側の体幹のバランスにも大事な要素があるように思われる。

 この同時打ちの二刀は、一般的によく知られている太刀と小太刀の二刀による打ちではなく、太刀と太刀の二刀を用いる心地で腕を使う。しかも同時に、でなければならない。こうすると、振った自分の腕に体を持っていかれないように、体幹のバランスに意識を置かねばならなくなる。そういう体と意識の使い方をすると、まず足の踏み方が影響を受けて変わってくる。そしてそれは、立つ、動く、という基本的な動作にも影響する。平たく言えば、体幹をすっくと整えた、きれいな姿勢で相手に臨まねばならない。

 二刀打ちがテーマの技を指導しているときに、稽古生の動きが、右手、左手と、バラけて遅れると、森先生は「アーア、それじゃあ芸者の太鼓だ」と顔を曇らせたものだった。

 その森先生は「僕は久先生の技しか習っておらんから」と、武田時宗先生が制定した初伝百十八箇条の形は見せなかったが、それでもたまに総伝技と思われる形の中から初伝に近い形を見せることがあった。その幾つかは、特徴的なリズムとともに、双腕による二刀でされる形であった。

 森先生が亡くなられたのちに、小林清泰師範から一本取と車倒を、両の腕を二刀のように使う形で指導いただく機会があった。「まあ、あんたは立場上この技をしっかり覚えとかないかんから稽古してもらわんといかん」というようなことを仰られた。

 この時の形の稽古は、時宗宗家伝の基本技の居捕の一本取と車倒の稽古の延長で始まったものだった。そういう意味では、このふたつの形は、基本の初伝の制定形と親和性がある形であった。しかし、初伝形の別法というわけではないので、総伝技なのだろうと理解した。

 この形の細かい解説はしないが、最後に受を捕り抑えて極める前後を除いて、最初から最後まで相手を掴むことなく両腕の手刀を同時同方向に使って制する一本取と車倒だと言えば、分かる人には想起できる形であると思う。

 また、この形のリズムは特徴的であった。過去の経験から、どちらかというと久琢磨先生の子弟だった先生方に共通する、特有のリズムと体の捌きが思い起こされた。おそらくこれは、琢磨会に初伝技が導入される前からよく稽古されていた技法の構成要素なのだろう。

 正直なところ、この実技に関するわたしの理解は、未だ人に説明するには心許ない。実際には、相手を制する前に、二刀同時ではなく、バラけて”芸者の太鼓”になってでも、相手の打ち込みをしっかり止めざるを得ない場面もある。それでも惣角先生が、あえて二刀同時打ちの口伝を伝え聞かせたのであれば、この二刀同時打ちを通して修得すべき大切な要素があるのだろうと理解している。

 まだ仮説だが、この「二刀同時打ち」は、いわゆる「草書の動き」と密接に関連しているのではないかと推測している。むしろ、より正確に言えば、草書の動きの中に二刀による同時打ちが組み込まれている、と解釈している。

 実際、小林清泰師範によるこの同時打ちの形の稽古では、技の途中でリズムを落とすのを嫌い、動きが継ぎ足しになると注意を受けることが多かったように記憶している。

 この「草書の動き」についてはいずれ稿をあらためて記す。