琢磨会が発足するまで
琢磨会 会報82号 平成24年1月
幹事長 小林清泰
何度か書きましたが最近入会された方に琢磨会が発足するまでの沿革を寄稿します。
昭和34年10月大阪ガス会社の筋向かい、御堂筋に面した埼玉銀行ビル三階で、財界の後押しもあって、関西合気道倶楽部が開設されました。道場の最初の印象は六畳ほどの広さしかなく驚いた。私が道場長 久琢磨師範と知り合ったのは昭和36年天風会修練会会場でした。納会で久師範が女子に「手刀詰」を指導、掛けられた大きな男が痛がるのを見て、これなら小柄で非力な私でも出来そうに思い早速入門した。残念な事に久師範は昭和36年10月に脳梗塞で倒れ病床に臥しておられた。道場長不在の間、昼は植田杏村先生が、夜は朝日新聞社の先生が指導しておられた。森脇潔先生が朝日新聞社体育館でも指導しておられたので、大和銀行女性秘書ニ名と参加させてもらった。新聞社内には五、六人は入れる風呂があり、稽古の後はその風呂で汗を流した思い出がある。
久先生は総伝写真集で技をしておられる吉村義照氏に免許皆伝を授与したが、久より先に他界。昭和37年7月森脇潔氏に免許皆伝を授与し、後継者として嘱望するも昭和45年10月不慮の事故で突然逝去された。いずれも久より若くして他界したので、その後は免許皆伝を忌み嫌い出さなくなった。昭和53年後継者として森恕氏に総務長を委嘱する。武田惣角が大東流免許皆伝の肩書きに「総務長 武田惣角」とされていたのを取り入れて、免許皆伝に代わる総務長を委嘱された。琢磨会では総務長と冠に付けお呼びしている。
久琢磨は土佐佐喜浜出身で、成器商業を経て大正4年神戸高商に入学、相撲部に入り学生相撲大会で優勝。大阪日報主催の全日本相撲大会に毎年出場し、優秀な成績を収めた。学生相撲界のリーダーとなって毎日新聞社の主催に改め、今の学生相撲連盟を創った一人である。大正8年4月鈴木商店に入社、鉄材部勤務。昭和2年3月鈴木商店の破綻後、同年6月に神戸高商の相撲部の先輩であった石井光次郎の紹介で東京朝日新聞社に印刷局庶務主任として入社した。昭和7年大阪朝日新聞社に庶務部長兼航空部副部長で転勤し、曽根崎警察の南にあった旧村山邸(朝日新聞社社主村山龍平宅跡)の社宅管理人として住まいする。
当時は皇室記事筆禍事件を巡って世の中が騒然としており、右翼や政友会院外団の襲撃から朝日本社を守る必要があった。
久は警備責任者であり、警備のため石井光次郎の紹介で昭和9年植芝盛平を招き大東流合気柔術を学ぶ。昭和11年6月植芝盛平の師 武田惣角が来阪、惣角(当時七十七歳)からも大東流合気柔術を学ぶ。昭和12年植芝盛平の稽古風景を撮影した記録映画「武道」を監督、制作。昭和14年3月二26日惣角より免許皆伝を允可される。昭和15年10月「惟神之武道」を発行。当時は警備のため警察官、柔道家を採用し稽古に励み、早朝稽古には手当が付いたという力の入れようだった。
戦局が悪くなる中、昭和18年6月南洋ジャワ新聞社転勤命令を拒否して退職。鈴木商店系の神戸製鋼に勤労部長(厚生部長)として就職するも、終戦処理の為辞任。郷里佐喜浜に帰郷、網元になるが失敗。昭和20年12月妻幸死亡。22年1月草田つゆと再婚。23年矢次一夫に乞われ国策研究会に入り、関西事務局長に就任し埼玉ビルに事務所を置く。昭和28年突然植芝盛平より初めての免許で合気道八段を授与された。昭和34年関西国策研究会事務局長を辞した時、大阪ガスビルで慰労会が持たれた。その席上で、石井光次郎は久に「大東流合気柔術の免許皆伝」を活かし後進の指導を勧めた。
埼玉銀行ビルに道場を設えたが、道場が狭くなり向かいの事務所が空いたので移転。昭和37年春二十畳の道場に拡大。会員が増え、昼間も稽古していた。階下の埼玉銀行からは、振動で蛍光灯がよく切れるとの苦情が寄せられスプリング入りの道場に改装された。
当時の私は「石井光次郎(厚生大臣・副首相)秘書役 久琢磨」の名刺を持って、企業に会員募集のポスターを貼って頂くようお願いに回った。ポスターの掲示を見て、森恕(後の総務長)、庵木英雄(後に鹿児島支部長)が入門された。神戸商船大学長の紹介で昭和38年三好雄一先生が入門、詩吟詩舞家元多田先生の紹介で昭和39年小林高士(後に奈良支部長)が入門した。道場は御堂筋に面し公孫樹の葉がきれいだった。道場には神棚があり、「霊和の道」の教祖三木先生(神戸高商相撲部の後輩の奥さん)がお参りにこられていた。久師範の話術は巧みで、武道家らしからぬインテリ師範の魅力に会員が増え続けた。当時の会員には安宅産業経理部河村さん他四名、大阪府庁建築部牧田顕治さん他四名、蝶理よりニ名、クスダ事務機、江口証券、大和証券、安田火災、近江絹糸の保科さん(柔道の国体選手)、大阪ガスの宇佐見さん(後に社内で同好会を創る)、三和銀行頭取のお声掛かりで人事部の竹内泰弘さん他九名、敷島紡績より室賀社長の紹介で紙谷さん他三名、天風会の会員で松田工業(現マツダ)荒尾さん他四名、大同生命ニ名、朝日広告ニ名、三菱商事岩田さん他四名、大阪セメント、三菱商事岩田澄子さん他三名、日本板硝子大橋史郎さん他一名、日本触媒化学から糸東流の山田さん、日豊から岡田実(後に阪神タイガース二軍寮長)他一名などの社員の方々が稽古に来ておられた。玄関の案内看板を見て入会される方もあった。会員同士で結婚された方がニ組あった。久先生は布団の中でマッサージをした甲斐あって半年後には外出できるまでに回復された。足に障害が残ったが、杖を突きながら鼠色の服に赤いネクタイの出で立ちで、神戸岩屋から淀屋橋まで奥さんに付き添われ、埼玉ビルの道場に顔を出しておられた。関西合気道楽部では会の運営費は法人会員でまかなわれた。一般会員からは白石基礎工業の今岡稔(元阪神タイガースの今岡誠選手の父君)が会計をしておられた。練習会員が増え、出勤前の朝稽古、昼休み時の稽古も出来て盛況であった。一日ニ、三回稽古される熱心な者もいた。昇段審査会は無く、久師範は稽古を見て段を出しておられた。祝賀会は道場で行われ、ことある事に理由を付けて飲み会が持たれた。楽しい宴で参加者全員が何らかの芸を披露した。来客も多く、手土産にお酒を持って来る方が多かった。昭和38年1月奥さんが他界。以後は道場で寝泊まりをして指導しておられたが、昭和43年久琢磨七十二歳の時、家族が健康を気遣い道場を閉鎖して東京へ転居された。東京では電電公社の鶴山晃瑞氏に指導(後に日本伝合気柔術を創始)、朝日カルチャーセンターで講座を開設し監督指導に出向いておられた。
大阪では道場閉鎖後、大和証券の沢井清徹氏の口添えで大阪証券会館道場を借り昭和43年から46年まで稽古、会館閉鎖に伴い道場閉鎖となる。昭和46年から一年間道修町に磯部運輸の社長のご厚意で蔵を改装して稽古。大広の吉村氏のご厚意で大広ビルで稽古。昭和47年7月関石石油の岩田淳一社長のご厚意で関西合気道倶楽部中津道場を開設。このころ西谷さん(後に箕面支部長、現在講武館)入門。昭和49年開石石油の事情で中津道場閉鎖。転々としながらも関西合気道倶楽部を維持、連綿と技は伝承されていった。門弟達は関西合気道倶楽部の支部開設に奔走し、川辺武史氏(現在講武館館長)が住吉武道館で、小林高士氏は大和学園前で公民館を借り支部を開設。大神謙吉さんは西宮に大武館を創設(後に独立)。大武館からは永治典さん(竹中工務店に部を創設)、岡林良一さん(武庫支部を創設、後に独立し白鳳会主催)が出る。南海の奥村さんが合流。昭和47年永治英氏竹中工務店社内に同好会を設立。昭和49年宇佐見守氏大阪ガス社内に部を創設。昭和45年徳島の南小松島から蒔田完一先生が関西合気道倶楽部に参加される。
昭和46年朝日新聞社に各支部が集まり合同稽古と成果発表する。これが後の演武大会へと発展していった。毎年春には久が帰阪し、小松島蒔田道場に出向き指導され、大阪から数名の者が参加する合同稽古となった。蒔田先生他界後、今の四国合同稽古となり場所も脇町カルチャーセンターに移り、千葉招隆師範の指導で合同稽古は連綿と続いている。(現在は佐藤英明師範が指導)
昭和50年8月大阪で朝日新聞社での合同稽古のおり、千葉紹隆先生の提唱で「琢磨会」が発足する。昭和55年1月朝日カルチャーセンター千里教室で大東流の講座を開設、講師を小林清泰が担当する。この教室より優秀な指導者が輩出した。梅井真一郎(後に尼崎支部長)、渡辺文男(後に難波土曜倶楽部・現総伝倶楽部に改称)、中山良男(後に甲子支部長)、三木清明、鍵田小弓、小泉雄次らがいる。
昭和55年10月31日、久琢磨逝去。
昭和57年4月藤井寺ファミリープラザ合気道講師に小林清泰が就く。ここからは、中川廣志(後に藤井寺支部長)、西本雅一(後に松原支部長)、横山一夫(後に松原童夢館)が出る。
昭和56年8月第一回金剛山千早山の家(大阪府教育委員会管理施設)で合宿。以降、ここでの合宿は夏の恒例行事となり、最盛期には百名を超える参加者があった。しかし平成6年落雷により焼失し、再建されたが大阪府の節税で予算が付かず、再建後は二度利用しただけで閉鎖となった。
昭和57年5月第一回演武大会が住吉武道館で開催された。朝日カルチャーセンターは小林清泰の仕事の都合で川辺武史先生に託した。神戸も小松先生から川辺先生が担当。NHK文化センターの講師も川辺武史先生が受け尽力された。
私から見た経過なので間違いあればご指導頂きたい。
※琢磨会会報82号(2012年・平成24年1月)の寄稿に、一部改稿し、最近の情報などを補足しました。
小林清泰師範略歴
昭和十七年(一九四二)生、大阪出身。十二歳で中村天風と出会い、三十五年(一九六〇)頃、中村天風の講座の最後に披露された久琢磨の演武を見て門下生となった。三十七年桃山学院大学在学中に合気道部を創設し初代主将となる。学生時代には合気会小林裕和師範に師事。その後、久からの紹介状を得て、合気会本部道場で植芝盛平、養神館の塩田剛三、大東流宗家武田時宗、また自ら湧別の堀川幸道の元を訪ねるなどして稽古を重ねた。四十五年(一九七〇)教授代理、四十八年(一九七三)八段を允可される。琢磨会結成時に幹事長となり、朝日新聞千里カルチャーセンター講師を務めるなど、多くの門人を指導、育成する。また琢磨会会報、稽古手帳などを整備し、琢磨会発展の礎を築いた。